52.清左衛門襲名と祝言のこと

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家康が掲げた「欣求浄土」の旗:釘浦山大澤寺のホームページから

 大阪の陣のあとのことである。

 豊臣家(本稿の仮説では第1次吉利支丹一揆)を滅ぼして、自ら陣旗に掲げた「厭離穢土欣求浄土」と「元和」を達成したことに安心したわけではなかったろうけれど、家康は元和2年(1616)の4月、75歳で死去した。茶屋四郎次郎が藤枝で供した鯛の天婦羅(実際は唐揚げ)に当たったといわれるが、本当は胃癌だったらしい。

 そのことは別稿に譲るとして、しばらくは先々の伏線となるいくつかの話をする。といって当方の都合で強引に進めると、読者にあっては

 ――暗闇で鼻をつままれたような……

 となるに違いない。

 そこで先にネタバレしておくと、一つは市右衛門が右馬允家当主の名乗り「清左衛門」を襲名したこと、続いて幕府の公文書に初めて「代官」として登場することになる経緯、もう一つは三代将軍の側室となって四代家綱の生母となる「お楽の方」につながる話である。また一つは出羽代官となった松平清左衛門の悩みの種を作った酒井九八郎(忠重)ということになるだろうか。

 いま、市右衛門は土呂に戻って、右馬允家一族に無事帰還の挨拶をしているところである。額田屋の奥に、人寄せに使う板張りの広間があったとせよ。仕切っている板戸を外すと、左右にざっと20人は座れる広さがある。毎朝の拭き掃除で、黒光りの床が艶々しい。

 市右衛門が二条城の御門警固で奉行を務め、その労を賞されて大番組に加えられたことはすでに書いた。俸禄は300貫(石)で変わらないが、21歳の若輩としては大出世である。

 ――いや、何よりのお手柄でありましたな。

 土呂部隊副将格の川井惣五郎と守役山岡久兵衛は大いに喜び、三浦七右衛門(姉の嫁ぎ先三浦家の次男)は

 ――さればわしは家老になってお仕えつかまつる。

 と言い出した。

 系譜上の関係は従兄弟だが、歳は七右衛門が15も上である。

 ――主従そろって右衛門か。よいではないか。

 叔父の親成、出家して「浄旦」が笑顔で言った。いまは長澤陣屋にほど近い御馬(豊川市御津町)の館で隠居暮らしの方々、10日に1度か2度、陣屋に顔を出している。念誓亡きあと、一族の最長老である。

 皆の了解は、右馬允松平市右衛門に付いて回る「念誓どのの忘形見」「大御所の膝乗り稚児」がいい方向に作用したということである。それもこれも肩衝茶入「初花」と関ヶ原のときに献じた五万貫の銭があればこそ、武家も商家も額田屋の財力を見ていることは言うまでもない。

 もう一つ、市右衛門からの土産話は当道座屋敷のことである。御門警固の合間を縫って、五条坊門高倉の龍伏城跡に建立された佛光寺に参詣した。当道座屋敷はその敷地の中(現在の洛央小学校)にあった。市右衛門はむろん勝手に持ち場を離れたわけではなく、御近習頭の松平右衛門佐(正綱)に断りを入れてある。

 門番に用向きを伝えると、正綱から先触れがあって、あっさり屋敷の中に入ることができた。対応に出てきたのは用人とおぼしき老人である。

 ――それは大きなお屋敷でありました。盲人の館と聞いておりましたが、御身の周りごと、書き役などは多くの目明きがいたしまする。ただ皆みなが法体というのはいささか珍妙にて……。

 ――「奥へ」と導かれるままに進みますると、奥の奥のそのまた奥にちんまりと検校さまがご座らっした。

 市右衛門は座敷のはるか下に平伏して、松平念誓の息子であること、毎年土呂の茶を献上していること、このたびの戦役で上方に上がったことなど口上した。すると、

 ――よう参られた。

 の一言があった。耳は達者なようである。

 ちらりと見ると、燕尾帽をかぶった背の曲がった小柄な老人が曲録(座椅子)に座っている。

 それが伊豆検校圓一だった。

 3年前に第21代総検校の職に就いていた。

 盲目者ばかりでなく、住所不定傷病不具の道人行者、職人工人を束ねている。このため位は高く、10万石の大名と同等の格式で扱われる。

 面会(というより拝謁)は素っ気なく終わった。

 年寄りであるし、雲上人であれば、自分のような者を覚えているわけもない。会えただけでありがたいとしなければならない、と市右衛門は思うことにした。

 ところが玄関先で、

 ――おこうさまによしなに、とのことでござりまする。

 市右衛門を見送った用人が告げ、

 ――献上茶の御礼に。

 後日、西陣の綾衣が下されたので、市右衛門は2度までも大いに驚いた。

 喜んだのはおかかさまである。この当時、西陣の綾衣は染め、降りとも唐(明)渡りの最新技術であって、土呂三八市であっても容易に手に入るものではなかった。

 座が解れたとき、親重が畏まり、威儀を正して

 ――ところで

 と口を開いた。

 ――皆みなが一堂に会したいまであれば、申したきことがある。

 清左衛門の名を市右衛門に、という。駿府城大御所の馬廻り衆というだけでなく、大番組に列するとなれば、右馬允家の当主に相応しいであろう。しかもすでに男児もおり、妻たへ(妙)の腹には2人目が入っているというではないか。

 読者にとっても初耳であろうけれど、市右衛門は重忠の2女で21になる於妙といい仲になり、重忠の妻が気がついたときには妙の腹が膨らみ始めていた。世間体を憚って妙は御馬の祖父の館に身を隠し、昨年(慶長18年:1614)の夏、元気な男児を産んだ。

 いま風にいうと、市右衛門は2歳年上の女房と「子連れ婚」を挙げ、ばかりでなくこの冬には2児の父になる。跡取りができれば、武家の当主として心置きなく仕事ができようというものである。すなわち、いつ戦場で命を失っても家は続く。そういう理屈である。

 念誓が大御所さまから拝領した貞宗の名刀、三つ扇の旗印、清左衛門の名乗りを以って市右衛門が右馬允家当主となったのは、元号が「元和」と変わった年の8月末のことだった。

 

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