53.高井郡2万石の代官のこと

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朝熊岳金剛證寺:三重観光開発のホームページから

 土呂松平家から代官の職を引き継いだ念誓の弟親成(浄旦)の家は、隠居後に構えた館の場所にちなんで御馬家と称された。その地は右馬允家第2代の甚右衛門(親常)が居城(住居兼砦)としたところであって、三河湾を望む高台である。

 東海道は御馬の北に通っている。御馬には湊があって、豊の原(東三河平野)の農産物を積み出し、外界からの物資を受け入れる拠点だった。つまるところ親常は、陸と海をつなぐ荷役を生業としていたことになる。

 浄旦がその跡地に館を建てたのは、長澤陣屋から2里半ということもあったのだが、孫の彦七郎(定忠:長男清四郎重忠の嫡男)が吉田城3万石松平忠利に組頭として出仕していたことによる。清四郎は三河代官の職を市右衛門に譲る腹を固めていたことになる。

 その意向は清四郎から駿府城の松平右衛門佐(正綱)に伝えられていた。

 正綱は大御所近習頭であるとともに勘定方(財政)の筆頭でもあって、東海3國(駿河遠江三河)の徳川家代官はみな正綱の配下にあった。そこで正綱は元和2年(1616)6月、清四郎を正、清左衛門(親正)を副として、信濃国徳川領の代官とする人事を決定した。

 信濃国の徳川領というのは、善光寺平を中核とする川中島四郡のうち、高井154か村のことである。家康が亡くなった2か月半後、元和2年7月6日のこと、徳川2代将軍秀忠が松平忠輝の所領を没収し、伊勢朝熊に配流した。それによって、ここに空白が生じた。

 秀忠が忠輝を改易・配流した理由や原因は明確でない。

 配流先の朝熊は「浅隈」とも書き、穏便して「あさま」と読む。三重県伊勢市鳥羽市にかかる山塊「朝熊山」(朝熊岳とも)のことであって、配流先はそこにある勝峰山金剛證寺を意味していた。現在は伊勢志摩スカイラインを使えばJR鳥羽駅から車で20分足らずだが、元和の当時は登るのも下界に降りるのも容易ではない。

 従四位下左近衛権少将という位は装飾に過ぎなかったとしても、忠輝は越後高田城45万石(一説に75万石とも)の太守である。それが、将軍の鶴の一声で無録の流人に貶められるという大事件だった。徳川家中ばかりでなく、全国に衝撃が走ったことは想像に難くない。

 Wikipedia松平忠輝》は「改易・配流」の項で

 「生母・茶阿局は、家康の側室の阿茶局高台院などにも取り成しを依頼したが、聞き入れられなかった」

 と記すが、衝撃はそのようなものではなかったろう。

 家康が最晩年に最も気を配ったのは忠輝である。

 忠輝は大坂戦役に消極的で、出陣を渋ったり参陣に遅滞したりした。それは当人も吉利支丹だったか吉利支丹親派だったためである。家康は2度までも忠輝を駿府城に招いて、

 ――吉利支丹を捨てよ。

 と説得した。

 またそれに付随して、徳川家の先々について、あるいは天下のことについて、多くを談じたのは疑いを得ない。例えば、

 ――吉利支丹を捨てるなら、将軍の座も巡ってこよう。

 というようなことである。

 実際、家康は臨終に際して「乃可勢」(のかせ/のかぜ)と名付けられた一節切(ひとよぎり:節が1つの竹笛)を忠輝に贈っている。それは織田信長豊臣秀吉徳川家康の歴代が天下人の証として所蔵した名笛であって、つまり「最晩年の家康は忠輝を嫌っていた」という通説は、秀忠サイドが流布した偽情報にほかならない。

 忠輝改易・配流の知らせを聞いて、伊達政宗は地団駄を踏んだであろう。

 家康の逝去は長く秘せられていたが、政宗はいち早く吉利支丹の道人行者から情報を得ていた。このとき50歳である。

 ――敦盛か……

 幸若舞「人間五十年下天の内を……」は信長が好んで、自らしばしば舞ったという。政宗も信長に傚って、この謡曲から天下のことを夢想した。エスパニア、ローマに支倉使節団を送ったのは、全国300万人の吉利支丹に一斉蜂起を促す布石の1つである。

 ところが要の石が消えた。

 家康の男児のうち、忠輝と連携すべき尾張名古屋城62万石の徳川義直はやっと16歳、駿府50万石の頼宣は14歳、水戸城25五万石の頼房は13歳になったばかりである。秀忠に抗する総大将として擁するには年端が満たない。

 この時点で政宗の野望は潰えたといっていい。

 政宗の心情は推察できるのだが、当の忠輝が分からない。なぜ、いとも容易に潜在的な秀忠対抗候補から降りることを肯んじ得たのか、である。強いて理屈付けをするなら、忠輝の家中には、旧臣派と新臣派に加え、越後高田派と信濃待城派というお家騒動の種が燻っていた。これでは江戸の圧力に抗しきれないと見て、自重する道を選んだのだろうか。あるいは高山右近があっさり海外追放の命を受け入れたように、当時の吉利支丹に特有の受難受容の思考があったのか。

 ともあれ忠輝は所領没収のうえ、伊勢の金剛證寺に配流された。寺に入ったからといって出家していないのは、忠輝が吉利支丹の影響を強く受けていたことを物語るし、同時に配流先が山岳信仰における聖地の一つだったことが注目される。以後、修験・山伏が忠輝を取り巻くことになる。

 忠輝が退去したあと、越後高田城には酒井家次が上野高崎城から十万石で入り、信濃待城には松平忠昌が12万石で入った。酒井家次は家康の叔母(広忠の妹)碓氷姫の長男、松平忠昌は家康の2男結城秀康の次男という間柄である。

 忠輝が知行した信濃4郡の総石高は14万石、このうち松平忠昌が12万石を引き継いだ。高井郡154か村2万石が徳川家直轄地となった。忠昌に知行させなかった事情はよく分からない。

 興味深いのは、忠輝の改易・配流は江戸の裁断だが、その後任人事は駿府の意向だったことである。家康逝去から2か月半、駿府幕府から江戸幕府への権力移譲はまだ完了していない。大名の封建は将軍の所管ながら、徳川家直轄地における勘定方(年貢の徴収と売却)について、江戸幕府の差配が及ぶ範囲は関八州に限られていた。

 忠輝は長澤松平家の当主である。高田城と松代城に秀忠の息がかかる大名が封じられたのは、すなわち将軍の所管である。対して高井郡2万石の代官には長澤家の分家である右馬允松平清四郎と清左衛門が任じられた。その事績が江戸幕府の公文書に残っていないのは、そのような事情に依っている。

 

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