54.大乗につきお目こぼしのこと

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江戸時代の医師は法体が多かった

 元和元年(1615)に時を戻す。

 家康が駿府に戻ったのは8月の末である。

 そのあとを追うように、当道座職の総検校伊豆圓一(土屋圓都)の一行が駿府にやってきた。総検校は10万石(一説には15万石とも)の大名と同格とあって、駿府城下に入った行列は300人におよび、徳川家中が両脇を固めた。

 検校は琵琶の音曲だけでなく針灸按摩を施し、漢方の医術・薬術を得意とした。幕府の御用を承っているわけでもなく、京都奉行から所領を安堵されているわけでもない。佛法寺の寺域に屋敷を構えているだけである。

 にもかかわらず惣検校圓一が大名並みの丁重な扱いを受けたのは、医術・薬術を習得した検校を掌中に握っており、諸大名に派遣しているからである。実際、家康は圓一が手配した医薬方の検校を、15人も身の回りに置いている。

 そして何よりも、圓一は家康が今川家の質だったときの遊び相手だった。

 ——こたびは何用で。

 家康近習の問いに

 ——江戸に所用あり。

 と答えたのは圓一自身であったか、その供回であったか。

 むろん、尋ねられなければ詳細を語るはずもない。話したところで事情が飲み込めなければ意味がない。ただし家康と圓一の間では、細かな説明は一切要らない。

 ——牛之助が儚くなり申して。

 と圓一が言えば、

 ——朝倉の……

 と家康が受ける。そのような関係である。

 牛之助とは朝倉才三郎(政明)のことで、物の本によると慶長18年(1614)の9月に死去したと記録されている。

 圓一は55歳のとき、

 ——もはや嗣子はできぬであろう。

 と思い定めて、かつて小田原北条家の伊豆衆として懇意にしていた鎌田城(伊東市)の朝倉政元と、

 ——お主に新たな男児の出生あらば、当家の養い子に。

 と約定した。

 天正17年(1589)、政元に男児が誕生し、約定に従って伊豆検校の跡目となった。丑年の生まれなので「牛之助」といった。これが事実とすれば、才三郎の享年は数えで26だった。

 ところが圓一が62歳のとき(慶長9年:1604)、洛中に囲っていた女が男児を産んだ。そこで朝倉政元は牛之助を引き取って朝倉の姓に復せしめた。朝倉才三郎は2代将軍秀忠の近習となっている。

 その才三郎が病死したという。

 ——それは天寿。

 と家康は言う。

 ——いかにも。しかし談合したきこと之有、と忠兵衛が。

 忠兵衛とは前出の圓一62歳のときに生まれた男児であって、早くに土屋の家を継ぎ、やはり秀忠の近習を務めている。江戸の土屋屋敷からの書簡によると、

 ——水戸徳川家の朝倉右京進(豊高)が火急の面談を求めている。

 という。 

 ――なにごとであろう。

 水戸徳川家の名を家康は聞き咎めたが、圓一は

 ——はて……。 

 というほかにない。

  江戸に向かう事情をひとまず終え、圓一は居住まいを正した。

 ——せっかくの折、お願いの儀之有。

 ——竹馬の馴染みゆえ、申してみよ。

 ——しからば。

 当道座の始まりは、である。

 仁明天皇の第4皇子人康(さねやす)親王が15歳のとき病で失明し、山科の里で被官の盲人に琵琶の吟唱を教えた。親王の没後、その被官に「検校」の称を与えたのが、男性盲目者を「検校」と呼ぶようになった始まりとされる。

 次いで足利尊氏の従兄弟である明石検校が、自ら「惣検校」と称して盲人の座を創設した。「この道」「道の者」の意味で「当道」と名付けられた座の道人は、諸国の守護や地頭、有徳者や分限者に招かれ晴れて音曲を演じ、結果、内情を見聞きする。朝廷と幕府の保護を受けるようになったのは、その役割が認められたことを意味している。

  以後、当道座は初代総検校明石覚一から伊豆検校土屋圓一(圓都)まで20代、盲目者や聾者の自律的互助組織として機能した。ときの権力と結びつき、当道座そのものが権力組織だったにせよ、戦傷や疾病による不具者、難病罹患者を介助する機関が存在したのは奇異としなければならない。

 もう一つ、当道座は大乗である。仏教世界でいえば在家であって、衆生の救済を本願とする。

 ——真宗と当道の根は一つ。また念仏と吉利支丹のオラショは同じようなものでありましょう。

 家康は黙って聞いている。これが配下の者であったり公家の有識者であったら、家康は

 ——政道に口をはさむか。

 その場で手討にはしないまでも、退去を命じたところである。しかし相手は法体(出家)であり、盲目者であり、幼馴染の友である。

 ——門徒衆のごとく徒党を組んで一揆を為さぬなら、吉利支丹もご寛容あるべきかと。

 ——聞き置く。

 このときはすでに故人となっていたが、「当代一の名医」とされた曲直瀬道三(実名は正盛)は法印の位を持ちながら茶の湯の名匠であり、かつ「べルショール」という受洗名を持つ吉利支丹だった。人を救うという姿勢が共に通じるとともに、南蛮の医術薬学の知識を求めたのである。

 家康の周辺にいた吉利支丹は、曲直瀬道三だけではない。田中吉政黒田長政伊達政宗細川忠興松平忠輝など、「ではないか」と推測される者を含めれば多くの大名がいた。吉利支丹を追い詰めるのは、なるほど得策ではない。

 ――ついては……

 と圓一が続けたのは、

 ——我が座中には吉利支丹が混じっている。検校座頭、併せて瞽女はお目こぼし下されたく。

 という依頼である。

 叛旗を翻さないなら吉利支丹を許すように、の忠告が本題だったのか、お目こぼしの依頼が目的だったのか、さすがの家康にも分からない。

 

 

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