55.最後の懸案は大衆統治のこと

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早雲寺:箱根町湯本(箱根ナビから)

 このとき家康が駿府城本丸の書院で惣検校圓一を迎えたのは、今川の質だったときの幼馴染と思い出話をするだけが目的だったわけではない。その一言が天下を左右することになる家康であればこそ、配下の本多正純松平正綱らにも話せないことがある。

 その話し相手になったり知恵を授ける識者、遊芸楽曲の指南役を御伽衆とか同朋衆と呼んだ。御伽衆は伽(暇つぶし)の相手役だが、この場合は妙齢の女性、有力家臣の若衆を意味しない。没落した名家名族や聞き上手話上手の出家が揃っていた。身辺警護を務める近侍衆が御伽衆を兼ねることもあった。

 一方の同朋衆は遊芸楽曲の上手名人で、時宗の願人が少なくなかった。

 信長には拾阿弥という同朋衆がいたし、秀吉は最初は信長の同朋衆だったという人もある。秀吉は煌びやかな桃山文化の担い手として、伏見城に数多くの御伽衆、同朋衆を入れていた。

 対して家康はこれといった御伽衆、同朋衆がいない。いや、今川、信長、北条、秀吉の遺産を受け継いだので人数は多かった。独自の、という意味で強いて言えば、伏見城で討ち死にした上林竹庵ぐらいではなかったか。一向一揆のトラウマから、真宗時宗を遠ざけたためといわれている。となると、土屋圓一は数少ない御伽衆、同朋衆の一人ということになる。

 このところ家康は、体調に違和感を覚えていた。最初は合戦場での野営と長旅の疲れが抜けないのだと考えていたのだが、微熱が続き下痢が止まらない。胃の腑のあたりが、数年前からキリキリと痛み、ひどい吐き気に襲われることがあった。

 家康が自分で漢方薬を調合したと伝わるのは、それほど健康に気を配っていたからではなく、人に知られたくない不具合を抱えていたからにほかならない。それというのは胃癌であって、腹の上から触ると胃に大きな腫瘍があるのが分かるほどだし、今ふうに言うと癌は肝臓に転移していた。むろん、家康は圓一に、そのようなことをおくびにも出さない。

 ――諸法度が整い、大坂のことも終わり、これにて偃武の世がまいろうかと存ずる。

 偃武とは武器を伏せることをいう。武器を伏せるとは、蔵に収め用いることをしないことである。真の平和が実現する、と家康は言う。

 ――まことにおめでとう存じまする。これにて徳川の世は弥栄でありましょう。

 偃一が慶賀したのを遮って

 ――したが……

 と家康が続けたのは、次のようなことである。

 5つの諸法度(武家諸法度禁中並公家諸法度、諸社禰宜神主法度、諸宗寺院法度、修験道法度)で法治国家の基礎はできた。しかし大坂の戦役で目撃したのは、百姓衆生(大衆)の無秩序である。我先に城中の家財を奪い、手当たり次第に女を犯し、老若男女を問わず殺して偽首を掻く。

 あのようになっては、いかに鬼の平八郎(本多忠勝)、彦二郎(本多康重)であっても抑えきれぬ。げに恐ろしきは百姓衆生である。秀忠に天下のことを任せるに当たって、武器の威圧でなく衆生を統制する方法はないか。

 ——それをいま、考えている。

 ――武圧でなく、と仰せであれば、百姓法度を定めるほかございますまい。まずは幕領にて高札するのが得策かと。

 ――検校どのよ。百姓法度は下策じゃ。

 家康は言う。

 高札を掲げても、百姓衆は文字が読めぬ。武家の言葉使いも理解できぬ。吉原の花魁言葉ができたように、武家の言葉も方言を乗り越えるための工夫が施され、独特の表現手法がある。百姓衆が守らねば法度は高札の飾りになるだけであろう。

 圓一はしばらく考えて、

 ――かの早雲どのは……

 と口を開いた。

 小田原北条氏の初代であって、一般には「北条早雲」の名で知られる。しかし彼が「北条」姓を名乗ったことはなく、実名「伊勢新九郎盛時」ないし出家号「伊勢宗瑞」を使っていた。永正16年(1519)8月15日に亡くなり、「早雲寺殿天岳宗瑞公大禅定門」の戒名が付いた。

 家康と圓一が面談しているいま現在からほぼ100年前の人物を圓一が持ち出したのは、21条で成る「早雲殿廿一箇条」の話をしたかったからである。神仏を信じよ、朝は早くから起きて働け、夜は早う寝よ、質素倹約、火事用心といった生活訓を並べている。

 ――ふむ。

 家康が定めた(定めを作るように命じた)諸法度は、武田信玄が定めた「甲州法度次第」いわゆる「信玄家法」の上巻57箇条を参考にした。圓一が言う「早雲殿廿一箇条」は、「信玄家法」の下巻26箇条に通底する。

 北条氏の時代、関八州百姓一揆はほとんど起きなかった。その背景には、「早雲殿廿一箇条」を僧侶や禰宜、願人などに覚えさせ、百姓衆に口頭で伝えさせたことがある。

 ――まずは代官をして民だみを教え導くことこそ肝要かと。

 ――代官をな。

 年貢を取り立て、争いごとを裁き、事件・事案を探索するのが代官の役務と考えられている。その代官に生活訓を覚えさせ、自ら実践せしめ、かつ民だみを教導させる。地域を治めるという意味では、旗本諸大名も幕府代官も同列である。

 ――併せて一つ願いごとが。

 圓一は当道座職「七十三刻」(73の階級)を創設し、全国に普及することを目指していた。「無官」「初心」「打掛」「座頭」「勾当」「別当」「検校」の階級に応じて負担する共益費(上納金)を蓄積し、病や怪我に際して配分する。その金額とルールを示したわけだった。互助会であり保険の機能が登場した、といっていい。

 話を聞いた家康は、

 ――それは良いことである。

 と言った。もちろん第一義は「盲人にとって」であって、これがのちに徳川一門衆、譜代衆の城下に「仕置屋敷」を設置する契機となる。同時に大衆庶民の諸芸全般に本山制度、すなわち互助会の機能を備えた資格階級、家元制度が普及する下地になっていく。

 また、これにより「当道」の範囲が広がり、のちの苛烈な武力弾圧で鼻を削がれ、斧で手足を断ち切られた吉利支丹の多くが当道座に加わり、あるいはその介助を受けた。ただしこの仕組みは、集約した上納金を武家や商家に貸付ける機能に変質していくのだが、それは元禄(1688~1704)以後のことである。

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