56.朝倉才三郎の跡式のこと

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駿河臺:不二三十六景(廣重画)

 駿府城を訪ねる前、圓一は家康付きの侍医片山宗哲から、「腹中の岩」について聞かされていた。ともに法印でもあり、宗哲にすれば惣検校と誼を通じておいて損はない。

 ときおり鋭い痛みが走るのを大御所は

 ――真田の祟りじゃ。

 と笑って取り合わない。古来「寸白」(すばく)と呼ばれた寄生虫であって、その形状が真田信繁の一党が売り歩いたとされる平織りの紐(真田紐)と似ているので、「真田虫」の俗称がついた。家康は腹のなかに真田虫が住み着いて、塊になっていると思っていたらしい。

 そこで「万病丹」と名付けた虫下しを飲み、毒を以って毒を制することをねらって鴆毒(ちんどく:砒素系の猛毒)を薄めた「銀液丹」を常用した。

 あれやこれや思い出話が尽きなかった。親しく歓談するなかで、しかし圓一は家康の気配に神経を集中させていた。視力はやっと光を識別できるほどだが、聴嗅味触の四覚は常人の数倍も研ぎ澄まされている。

 声が張りを失い、歯切れが悪いのはお互いさま、歳のせいなのだが、家康の息遣いにときおり雑音が入る。だけでなく、息が乱れることがあった。痛みが常態化しているのであろう。

 この時代に限ったことではなく、トップ会談の裏では実務者間の情報交換が行われる。ご多聞に漏れず、圓一に帯同していた風魔衆は駿府城の伊賀衆、甲賀衆と、当道職屋敷の事務方検校は駿府城内の茶坊主たちと、それぞれに会っていた。

 彼らが集めてきた話を合わせると、

 ――長くはないかもしれぬ。

 が圓一の結論だった。実際、家康はこの4か月後、鷹狩りを催していた遠江田中城(藤枝市)で倒れ、さらに3か月後の4月17日、数え74歳で他界することになる。家康にとって圓一との面会は、最後の楽しいひとときだったかもしれない。

 記録によると、家康が江戸に向かって駿府城を発ったのは、元和元年9月29日だった。圓一は家康の行列に同道するかたちで進んだが、途中、藤沢で家康の本隊と別れた。藤沢には徳川家の御殿があって、家康の本隊はここで一泊したのち、鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣するのが通例だった。

 江戸に入った圓一一行の宿泊先は、嫡男で将軍秀忠御近習を務める土屋忠兵衞(知貞)方、すなわち駿河台の土屋屋敷である。江戸城内の御殿や城下の仕置屋敷でなかったのは、要件が私的な所用だったためである。

 駿河台は当時、江戸の街並みを見下ろす高台の新興住宅地だった。日比谷入江を埋め立てるために神田山を切り崩した。宅地化されたのは慶長9年(1604)以後で、講談や時代劇に一心太助と対で登場する「天下のご意見番」こと大久保彦左衛門(忠教)もここに住んでいた。

 圓一には跡取りができなかった。そのため養子にした伊東鎌田城主朝倉彦四郎(政元)の息子「牛之助」、長じて才三郎政明が慶長18年(1613)に急死したことはすでに述べた。圓一の嫡男忠兵衞は、才三郎から見ると15歳年下の義兄弟ということになる。

 圓一来着の報を受けて、

 ――才三郎の跡式(遺産)につき、火急に相談したきこと之有。

 と言ってきた朝倉豊高が、小石川の水戸家江戸屋敷からやってきた。かれこれ十年ぶりの再開である。

 ――なにとぞ内密に……

 と豊高が言うのには、才三郎は秀忠の御膳番を務めていた。お役目に就いて数か月も経たないうち、頭痛が始まり、発熱と嘔吐を繰り返した。最後は肌に紫斑ができ、口元に泡を吹いて悶絶した。

 ――毒。

 そのように見えるほど、その死は不自然だった。

 本来なら才三郎は被害者であって、その死には恩賞あって然るべきにもかかわらず、幕府目付けが才三郎方を捜索した。だけでなく、水戸徳川家に猜疑の目を向けているらしく思われる。

 ――このままでは理不尽のうちに、水戸家に災いが降るやもしれぬ。

 慶長18年の9月は大阪戦役の直前で、双方の緊張感が極度に高まっていたときである。戦支度でごった返すなか、真田が放った忍の者が秀忠をなきものにせんと企んだかもしれないが、今となっては藪の中である。

 大坂のことがひと段落したいま、才三郎から糸をたぐった先に水戸家があるのを見つけた幕僚のたれかが、水戸家の力を削ぐ好機と見ているのではあるまいか。

 ――では、どのようにしたいのか。

 圓一の問いに、豊高が答えたのは

 ――才三郎が毒を飼うに能わざるを明らかにいたしたく。

 であった。

 たれが毒を盛ったかはどうでもいい。朝倉家は本件と無縁であることが証明され、そのことがお上(将軍)に達すれば難は去る、と豊高は言う。

 以上の事情を理解した圓一は、風魔衆に才三郎の家を宰領していた朝倉惣兵衛を尋問させ、才三郎が亡くなる前後、その周辺の人の動きを探り、だけでなく惣兵衛の生まれ故郷、下野の鹿麻村(栃木県古河市)まで人をやって調べ上げた。小田原の風魔衆はこのころ北武蔵(埼玉)から下野(栃木)、上野(群馬)に展開していて、圓一配下の風魔衆の探索は思いの外うまくいった。

 10日ほどして風魔衆が出した答えは

 ――惣兵衛も才三郎どのも、附子を入手すること叶わず。

 であるという。

 この当時、人を急な死に至らしめる毒として知られていたのは鳥兜か鴆毒(砒素の一種)である。総じて「附子」(ぶす)と称されるが、それを知っていたのは当道に属する医薬衆か暗殺を請け負うこともある忍の衆に限られる。

 結句、才三郎の死因は食中毒、とされた。天下の惣検校が吟味に吟味を重ねて得た結論である。幕府目付け方が異を唱える余地はない。

 食当たりであれば、家宰朝倉惣兵衛なる者にも罪はない。

 ――ただし、人を騒がせた。

 とされて江戸追放の処分が下された。幕府吏僚の追及を断つために、江戸払いを命じたとも言える。惣兵衛は故郷に戻り、名を一色庄右衛門と改めたと伝えられる。また才三郎の家は無嗣断絶となるべきところ、特別のはからいを以って豊高の2男豊明の家督が許された。

 ちなみに書いておくと、圓一と豊高を仲介した土屋忠兵衞(知貞)は、のち太閤秀吉の立身出世話を書き留め、それを水戸徳川家の医師で国学者の朝倉景衡に手渡した。『太閤素生記』と呼ばれる文書がそれであって、実父圓一が安土桃山で聞いたこと、知ったことを中心に、母や祖母、養母(秀吉が生まれたとされる中々村の代官の娘)が補足したものだという。

 

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