この史譚の第一部は松平念誓(清蔵親宅)の死去で終わった。今回は徳川初代将軍家康の死を扱うが、節目ではあっても部の変わり目にはならない。物語のうえで中心となるのは、家康より松平正綱になる。
元和2年(1616)4月17日、こんにちの暦に直すと6月1日のこと、家康は駿府城において数え74歳の生涯を閉じた。それより50日ほど前、2月27日、藤枝で催した鷹狩りの折、田中城で茶屋四郎次郎が供した鯛の天婦羅(唐揚げ)で体調を崩した。
鯛の天婦羅が直接の原因ではなかったにしても、引き金になったことは間違いない。侍医の片山宗哲がつきっきりで介抱し、そのまま駿府城へ戻った。2月1日には知らせを聞いた2代将軍秀忠が駆けつけ、全国の寺社に平癒快気の読経祈祷を捧げるよう命令した。
腹部の硬い腫瘍、吐血、黒い便、みるみる痩せていったといった症状から、死因は胃癌とされる。しかしいかに希釈されていたとはいえ、常用した「銀液丹」に含まれていた有機銀と鴆毒(砒素)の蓄積が限界を超えたのかもしれない。
家康は3月の中旬ごろ、自分はもう長くないと覚悟して、遺言を考え始めた。
金地院崇伝の手控え(『本光国師日記』)によると、4月2日のこと、家康は枕許に本多正純、金地院崇伝、南光坊天海を呼び寄せて
・自分の遺体は久能山に納めること
・葬儀は江戸の増上寺で行うこと
・一年が過ぎたら下野の日光に「小さき堂」を建てること
などを伝言した。
「小さき堂」が家康においてどのようなものを意味していたかは分からないが、
「八州之鎮守に可被爲成」
は、久能山から霊魂を招聘して小さき堂に勧進せよ、しからば我は関八州の鎮守にならむ、の意思表示である。葬儀は仏式で行い、そののち鎮護の神となるというのは、秀吉においても見ることができる独特の宗教観といっていい。ちなみに久能山には「久能寺」という古寺の跡があった。おそらく山の端から日が昇るのが、駿府の人々にとっては神聖な場所として映っていたらしい。
続く4月3日、三河刈谷から呼び寄せた水野忠清と面会して、謹慎を解いた。
忠清の謹慎は、大阪戦役で青山忠俊、高木正成と先陣を争い、無益な混乱を生じさせたことを秀忠に譴責されたことによる。こののち忠清は刈谷城2万石の大名に復帰した。
その席には土井利勝、本多正純、松平正綱、秋元泰朝が同座した。
土井利勝は家康の落胤説があって、秀忠の嫡男竹千代(のち3代将軍家光)の傅役であり、江戸幕府官僚のトップである。武家諸法度の策定に、江戸方の代表として関与したとされる。水野忠清赦免の立会い人という以上に、向後の天下のことについて遺言があったと考えるのが道理である。
8男忠輝は駿府城下にいて、呼び出しに備えていた。ところが何度人をやっても、城中からの返答は
――大御所さま、以ての外の御いかりにて、城中へも入るべからざる旨仰下され。
というばかりで埒が明かない。
判官贔屓の筆者としては、家康は苦しい息の下で
――上総介はまだか……
と枕頭の者に尋ねていたものと思いたい。
これもすでに書いたことだが、忠輝の到着を待ち望んでいたからこそ、家康はいよいよと思い定め、その生母である茶阿局に天下人の証である一節切(ひとよぎり)の名笛「乃可勢」(のかせ/のかぜ)を忠輝への形見として託したのに違いない。忠輝を城に入れなかったのは秀忠(ないしその幕僚)であろう。
家康が息を引き取ったのは4月17日の午前10時ごろとされている。
ただちに諸国の大名、旗本に対して、
――弔問下向は無用。
と伝える使者が出立した。これも生前の家康が駿府幕府の中枢に伝えていたものと思われる。また同日の深夜、その遺体はほぼ立方体の黒塗りの棺に正装で座した姿勢で納められ、正純、正綱、泰朝が供奉して久能街道を下っていった。
このために「家康は通夜もなしに埋葬された」と伝えられる。しかし実は、久能山久能寺跡で通夜が行われていた。棺は寺跡の高台に安置され、吉田神道の習わしに従った通夜が行われた。埋葬されたのは19日、秀忠が久能山に参拝したのは22二日、江戸への帰途に着いたのは24日である。
本田正純、松平正綱、板倉重昌、秋元泰朝、崇伝、天海ら駿府城の中枢は、秀忠に帯同して江戸に下り、ここに駿府幕府は消滅した。教科書日本史は「駿府と江戸の二元政治に終止符が打たれた」とするが、関八州の差配に制限されていた秀忠の江戸幕府が「天下のこと」を掌握したというのが正しい。
駿府幕府要人のうち、長く家康の懐刀として権勢を振るった本多正信は、家康の死去を機に家督を嫡男正純に譲った。慶長十八年、家康に許されて、相模玉縄城(鎌倉市大船)に事実上逼塞していたので、大勢に影響はなかった。同年6月7日、家康の後を追うように77歳で死去。
本多正信から家督を受けた嫡男正純は幕府機能が江戸に集約されたあと、秀忠の側近(宿老扱い)となった。下野小山城3万3千石に2万石を加増され、さらにのち、元和5年(1619)宇都宮城15万5千石に封じられた。大幅な加増だったが、引き継ぎが終わったらお役御免になった、と言えなくもない。
松平正綱は江戸幕府においても、引き続き勘定方として勤めることとなった。従前の江戸幕僚は関八州以外の事情に疎かった。家康の実質的な直轄領は百万石を超えており、それを的確に差配できるのは正綱をおいて他にいなかった。
正綱は江戸着任から日を置くことなく、秀忠が発した松平忠輝の改易に関連し、7月中旬、空白となった信濃高井郡2万石の代官に松平重忠、同親正を任命した。忠輝が長澤松平家の当主であるので、その分家である右馬允家の2人を起用したのである。
次いで10月には板倉重昌、秋元泰朝とともに駿府城に来て、城内の蔵を改めた。このとき駿河、遠江の徳川直轄領の年貢はすべて江戸に廻送するよう触れを出した。収穫を終え、年貢米を駿府城の蔵に納めるべく準備を進めていた村々はおおいに慌てふためいた。その混乱を治めて江戸に戻ったのは12月である。
板倉重昌はその後も5千余石の大身旗本のまま幕閣にとどまり、秋元泰朝は上野総社(前橋市)1万石を知行した。両人とも用水路を整え、新田開発などに手腕を発揮したと伝えられる。