58.天領でなく幕領のこと

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高山陣屋Wikipediaから)

 今回の話題は、これまでに何度か登場した「陣屋」について、である。

 読者にあって馴染みがあるのは、岡崎の土呂陣屋であろう。

 土呂陣屋跡は、現在の土呂八幡宮社域とされている。だが八幡宮は陣屋の片隅に勧進されたのであって、往時は東海道本線を挟んで上地八幡宮・願成寺あたりまでの広域が陣屋だったらしい。宅地開発の荒療治で丘陵が削られて、当時の地形は見る影もない。

 「陣」という文字は「阝+車」で成る。旁の右にある「阝」は単独で使われることがない。「こざと」偏と呼ばれ、高台を意味しているという。華夏の春秋戦国のころ、合戦場を見渡せる高台に指揮官と機動部隊(戦車隊)を置いた。すなわち陣屋とは、それが常駐する建物ということになる。

 土呂陣屋は永禄7年(1564)、この地を領していた石川与七郎(数正)が置いた。三河一向一揆の拠点だった本宗寺が焼き払われ、だけでなく土呂村そのものが焼け果てて消滅した。そこで与七郎は新たな町割りをするとともに、門徒宗との有事に備えるのがねらいから、宗本寺の跡地に小規模な城を作った。

 城というと、

 ——石垣は? 天守閣は?

 となるのだが、要するに土呂郷の行政・警察・軍事・徴税を差配した岡崎城出先機関といえば分かりが早い。

 戦国の時代は領主の館も砦も根小屋(山城の下に配置した日常生活の場、のちにこれが城下町となっていく)も、一律に「陣屋」だった。それが安土桃山様式と呼ばれる石垣、白壁の櫓、天守閣の城が登場したことで、城ほどの規模を持たない軍事施設が陣屋となった。

 さらに江戸幕府の時代、大名・旗本の所領地における屋敷や出張機関、徳川将軍家直轄地の代官所を指すようになった。ちなみに、徳川将軍家の直轄地を「天領」というのは明治以後の誤りであって、ここでは「幕府が管理した所領」の意味で「幕領」と表記する。

 代官所には本陣屋と出張陣屋があった。本陣屋は代官や寄騎・同心(手代・手先)が住む住居、役所本庁の機能のほか、軍装や軍備の品々が蓄えられ、犯罪者を閉じ込める牢屋や判決を言い渡す白州などが整えられていた。出張陣屋は寄騎・同心が常駐する支所のようなものである。

 さて、信濃高井郡の代官に任じられた松平清四郎(重忠)と清左衛門(親正)は、中野村に陣屋を置いた。現在の中野市中央にある「中野陣屋・県庁記念館」の敷地は、なるほど江戸期に中野陣屋があった場所だが、元和2年(1616)現在の陣屋がここに置かれたかどうかは定かでない。

 それというのは、現在の中野陣屋跡地は享保9年(1724)、北信濃の幕領7万石を統括する惣陣屋が置かれた場所だからである。それより100年も前のことであれば、信玄・謙信のころ当地を支配していた高梨氏の館跡(中野市小館)あたりに仮屋を設けたのではなかったか。幕命であるから、急使が走って屋舎の補修が施されたに違いない。

 清四郎と清左衛門が高井郡の代官に任じられた理由はすでに述べた。繰り返しになるけれど、前領主の松平忠輝が長澤家の当主であったので、その分家で代官を世襲している右馬允家にお鉢が回ってきたわけだった。代官の人事を掌握する勘定頭が、同じ右馬允家の松平正綱という関係もあったことは否定できない。

 右馬允家は三代目の念誓が岡崎三郎(松平信康)の宿老に列したとき、長澤郷の代官(長澤城城代)になって以来、念誓、親重、親成、重忠と代官職を世襲してきた。しかしいずれも三河の土呂・長澤郷に限られ、差配したのは25村1万2千余石である。

 それが今回は、159村2万石と大きくなる。石高は1.6倍だが、村数が6倍ということは、山あいの窪地に小さな集落が散在していることを意味している。であればこそ、正綱は清四郎の正、清左衛門を副とする二人の代官を派遣したわけだった。

 これより30年ほどのち、四代将軍家綱のころになると、幕領の代官は江戸在府が一般的になる。ただ、それは伊奈家が世襲した関八州郡代配下の代官に限られた。関八州以外の代官は、おおむね一年おきに江戸と現地を往復したらしい。

 しかしそれは寛永12年(1635)6月の「武家諸法度」改定で

 「大名小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ」

 いわゆる参覲交代の制が定まって以後のことであって、それまでは現地に赴任して業務を遂行するのが常識だったと見られている。幕領の代官制度は始まったばかりで、手探りの最中だった。

 それはともあれ、秀忠の幕僚が

 ――大御所がこの世を去ったら……

 虎視眈々と忠輝にねらいを定めていたのだとすれば、越後高田城、信濃松代城の合わせて45万石(75万石とも)の分配ないし後任についても計画があっていい。ところが高井郡に空白が生じた。ということは、幕僚は忠輝改易を想定していなかったのではあるまいか。

 秀忠が乱心して、忠輝を権力の階段から突き落とした。自身の支えとして重用しなければならない親族を切り捨てるのは、秀吉が秀次を自刃に追い込んだのとよく似ている。家康という最大の後ろ盾にして最大の保護者を失って、秀忠は保身に走った。

 ――上総介どのは貶められた。

 清四郎、清左衛門はそう考えていた。

 ――土呂、長澤は我ら代々の土地ゆえ領民も従うてくれる。したが、信濃の民からすれば松平の者であるには変わらぬ。ゆめゆめ力にまかせて抑え込むことは控えねばならぬ。

 土呂から中野陣屋に向かう道々、清四郎は清左衛門に言い、十数人の寄騎同心にも言い聞かせた。この時点で忠輝は改易されたものの伊勢朝熊の金剛證寺に、嫡男徳松は武蔵岩槻城阿部重次の許に、そろって健在である。必ずや赦免されて、長澤家を再興する日がやってくる。

 ――右衛門どののご深慮であろう。

 右衛門とは「右衛門大夫」を自称した松平正綱の通称である。

 ――長澤の名を汚すまいぞ。

 その言葉通り、中野村に着くや清四郎は、陣屋に入る前に一同を引連れて村名主の館に出向き、鎮守の社に参詣した。そのような領主がかつていたためしがない。